評 論言語活動を支える、多種多様な評論教材0664510 二〇二〇年一月以降、地上では、常にどこかの都市が封鎖され、どこかの国境が閉じられている。目に見えないウイルスは、海越え山越えひとりで旅するような力は持っておらず、人間を乗り物にして世界に広がってゆくものなので、人という乗り物の動きを制限して、その拡大を抑制することは、多くの疫病を生き延びた先祖たちが残してくれた、経験的な生き残りの知恵だ。 「ちょっと前までは、何も考えずに、あそこを飛んでいたのよね。」と思いながら、飛行機雲が引かれなくなって久しい空を、何度となく仰ぎ見る。人々は大地に固定され、引かれた境界線の枠の中での試行錯誤に右往左往をしているが、その上空では、大きな雲が形を変えながら、人間の境界線を悠々と越えて流れていく。 雲だけではない。窒素、酸素、アルゴン、二酸化炭素、リン、カリウム、セシウム、森林火災や火山噴火の煤すすと灰、マイクロプラスチック―数えきれない物質を含む、目には見えない粉ふん塵じんも、大気の風に乗って悠々と流れていく。命を支えるものも、命を脅11**231 二〇二〇年一月以降、……閉じられている。 本文執筆当時、新型コロナウイルス感染症の流行を受け、各国で都市の封鎖や、国境を越える人の移動制限が行われていたことを指す。1 「人々は……」の一文の中で、「人々」と対比されているものは何か。2 アルゴン argon(英語)。元素記号はAr。希ガス元素の一つ。無色無臭の気体。空気中に一パーセント弱の濃度で含まれる。3 マイクロプラスチック 細かく砕けたプラスチ星の目で見る 阿あ部べ 雅まさ世よ学びの位置づけ(六三ページ)3視点を変える6651015 アフリカのサハラ砂漠から舞い上がった紅砂と呼ばれる粉塵は、貿易風に乗って大西洋を渡り、五千キロ先の世界最大の熱帯雨林アマゾンに到達する。その様子を、宇宙衛星の目を通して観察し解析しているのは、N A S Aアメリカ航空宇宙局の大気科学者ホンビン・ユーの研究チームだ。彼は、多様性の宝庫であるアマゾンの木々の繁栄が、サハラから運ばれる紅砂に含まれる栄養素に依存していることを証明した科学者だ。 大西洋上においては、わずかばかり紅あかみを帯びたスモッグとしてしか知覚できない、紅砂の粉塵。それが、四百キロ上空のISSの窓からは、うねりながら大西洋を渡る深い紅べに色の帯として、肉眼でもはっきりと見て取れるという。そこに長期滞在した宇宙飛行士た1231 貿易風 熱帯域で恒常的に吹く、東からの(西向きの)風。2 ホンビン・ユー Hongbin Yu. N A S Aゴダード宇宙飛行センター所属の大気科学者。3 スモッグ smog(英語)。ここでは、乾いた微小粒子が大気中に浮遊して見通しが悪くなる現象のこと。アフリカ(右側)から大西洋を横断する紅砂(アメリカの気象衛星「NOAA-20」撮影)3視点を変える2501 パウル・クルッツェン Paul Jozef Crutzen (一九三三〜二〇二一)。オランダの化学者。一九九五年、オゾンホールの研究でノーベル化学賞を受賞。「人新世」の概念を提唱したのは二〇〇〇年。2 人新世 「ひとしんせい」のほか、「じんしんせい」とも読まれる。3 新生代 地質学的年代の大区分のうち、最も新しい時代。古第三紀・新第三紀・第四紀に三分される。4 完新世 新生代第四紀のうち、最後の氷期が終わった約一万年前から現在までを指す。510 化学者のパウル・クルッツェンは、地質学における新しい年代を指す概念として、「人新世」という概念を提唱した。この概念はテクノロジーと人間の関係を考えるための重要なキーワードとして大きな注目を集め、各所で議論を巻き起こしている。 これまで、現在が属しているのは約一万年前から続く「新しん生せい代だい第四紀完かん新しん世せい」であると考えられてきた。約一万年前と言えば、長い氷河期が終わりを告げ、現在に至る地理的条件が形作られた時期だ。日本では広葉樹の森林が誕生し、秋になると一面にドングリが落ちるようになった頃に当たる。このドングリを料理するために、人々は土器を作り出し、やがて縄文文化が形成されることになる。私たち現代人もそうした縄文人たちと同じ地質学的年代に生きている、と見なされているのである。 これに対して「人新世」という概念は、現代人が生きている時代を、その地球環境の条件において、新生代第四紀完新世から区別しようとするものだ。両者を断絶させているのは、人間の産業に由来する物質が、地球環境の一端を形成しつつあるという事態で123411「人ひと新しん世せい」と未来倫理 戸と谷や 洋ひろ志し学びの位置づけ(二三七ページ)9情報を関連づける251 「人新世」と未来倫理510151 「人新世」と「完新世」との違いは何か。5 生分解 バクテリアや菌類などの微生物の働きによって、有機化合物が無機物にまで分解されること。6 分水嶺 降った雨水を異なる水系に分ける山の尾根。ここでは、物事の分かれ目のたとえ。なお、本文では人新世の始まりを十八世紀後半の産業革命(注7)としているが、上の図(左の表)のように、二十世紀半ば以降とする見方もある。7 産業革命 十八世紀後半にイギリスから始まった、技術革新による産業・経済・社会の大改革。提唱 断絶 由来ある。 例えば、プラスチック、コンクリート、ガラスなどは、自然に生分解することがなく、地層にそのままの姿で堆積されていく。それらは砂や岩と同じように、人工物が地層を構成するようになり始めている。こうしたことは縄文時代にはまったく起こりえなかったのだ。 このような事態はいつから始まったのだろうか。人新世をめぐる議論では、一般的にその分ぶん水すい嶺れいは産業革命の時期に引かれている。この頃、人類のテクノロジーは急速に発展し、大量の人工物が生産され、また大量に廃棄されるようになった。その過程で大量のエネルギーを消費し、大量の資源を開発することが必要になった。おびただ567「人新世」は新たな地質時代となるか?第四紀新第三紀古第三紀白亜紀ジュラ紀三畳紀新生代現在地球誕生中生代古生代先カンブリア時代人新世?主な地質時代地球規模で起こっている現象完新世1万1700年前258万年前6600万年前2億5100万年前5億4100万年前46億年前更新世工業化や核実験などが本格化した20世紀半ば以降が有力地球温暖化森林破壊工業化核実験パンデミック(感染症の大流行)…生物量人工物と生物の総量の関係※イスラエルの研究機関の論文からその他(金属・プラスチックなど)アスファルトレンガ骨材コンクリート1.6兆㌧1.41.21.00.80.60.40.201900年 20 40 60 80 2000 20人工物量読売新聞2021年5月10日の記事より抜粋9情報を関連づける身近な題材から入試を意識した題材まで、充実の評論を掲載「「人新世」と未来倫理」「星の目で見る」64510 二〇二〇年一月以降、地上では、常にどこかの都市が封鎖され、どこかの国境が閉じられている。目に見えないウイルスは、海越え山越えひとりで旅するような力は持っておらず、人間を乗り物にして世界に広がってゆくものなので、人という乗り物の動きを制限して、その拡大を抑制することは、多くの疫病を生き延びた先祖たちが残してくれた、経験的な生き残りの知恵だ。 「ちょっと前までは、何も考えずに、あそこを飛んでいたのよね。」と思いながら、飛行機雲が引かれなくなって久しい空を、何度となく仰ぎ見る。人々は大地に固定され、引かれた境界線の枠の中での試行錯誤に右往左往をしているが、その上空では、大きな雲が形を変えながら、人間の境界線を悠々と越えて流れていく。 雲だけではない。窒素、酸素、アルゴン、二酸化炭素、リン、カリウム、セシウム、森林火災や火山噴火の煤すすと灰、マイクロプラスチック―数えきれない物質を含む、目には見えない粉ふん塵じんも、大気の風に乗って悠々と流れていく。命を支えるものも、命を脅11**231 二〇二〇年一月以降、……閉じられている。 本文執筆当時、新型コロナウイルス感染症の流行を受け、各国で都市の封鎖や、国境を越える人の移動制限が行われていたことを指す。1 「人々は……」の一文の中で、「人々」と対比されているものは何か。2 アルゴン argon(英語)。元素記号はAr。希ガス元素の一つ。無色無臭の気体。空気中に一パーセント弱の濃度で含まれる。3 マイクロプラスチック 細かく砕けたプラスチ星の目で見る 阿あ部べ 雅まさ世よ学びの位置づけ(六三ページ)3視点を変える6651015 アフリカのサハラ砂漠から舞い上がった紅砂と呼ばれる粉塵は、貿易風に乗って大西洋を渡り、五千キロ先の世界最大の熱帯雨林アマゾンに到達する。その様子を、宇宙衛星の目を通して観察し解析しているのは、N A S Aアメリカ航空宇宙局の大気科学者ホンビン・ユーの研究チームだ。彼は、多様性の宝庫であるアマゾンの木々の繁栄が、サハラから運ばれる紅砂に含まれる栄養素に依存していることを証明した科学者だ。 大西洋上においては、わずかばかり紅あかみを帯びたスモッグとしてしか知覚できない、紅砂の粉塵。それが、四百キロ上空のISSの窓からは、うねりながら大西洋を渡る深い紅べに色の帯として、肉眼でもはっきりと見て取れるという。そこに長期滞在した宇宙飛行士た1231 貿易風 熱帯域で恒常的に吹く、東からの(西向きの)風。2 ホンビン・ユー Hongbin Yu. N A S Aゴダード宇宙飛行センター所属の大気科学者。3 スモッグ smog(英語)。ここでは、乾いた微小粒子が大気中に浮遊して見通しが悪くなる現象のこと。アフリカ(右側)から大西洋を横断する紅砂(アメリカの気象衛星「NOAA-20」撮影)3視点を変える2501 パウル・クルッツェン Paul Jozef Crutzen (一九三三〜二〇二一)。オランダの化学者。一九九五年、オゾンホールの研究でノーベル化学賞を受賞。「人新世」の概念を提唱したのは二〇〇〇年。2 人新世 「ひとしんせい」のほか、「じんしんせい」とも読まれる。3 新生代 地質学的年代の大区分のうち、最も新しい時代。古第三紀・新第三紀・第四紀に三分される。4 完新世 新生代第四紀のうち、最後の氷期が終わった約一万年前から現在までを指す。510 化学者のパウル・クルッツェンは、地質学における新しい年代を指す概念として、「人新世」という概念を提唱した。この概念はテクノロジーと人間の関係を考えるための重要なキーワードとして大きな注目を集め、各所で議論を巻き起こしている。 これまで、現在が属しているのは約一万年前から続く「新しん生せい代だい第四紀完かん新しん世せい」であると考えられてきた。約一万年前と言えば、長い氷河期が終わりを告げ、現在に至る地理的条件が形作られた時期だ。日本では広葉樹の森林が誕生し、秋になると一面にドングリが落ちるようになった頃に当たる。このドングリを料理するために、人々は土器を作り出し、やがて縄文文化が形成されることになる。私たち現代人もそうした縄文人たちと同じ地質学的年代に生きている、と見なされているのである。 これに対して「人新世」という概念は、現代人が生きている時代を、その地球環境の条件において、新生代第四紀完新世から区別しようとするものだ。両者を断絶させているのは、人間の産業に由来する物質が、地球環境の一端を形成しつつあるという事態で123411「人ひと新しん世せい」と未来倫理 戸と谷や 洋ひろ志し学びの位置づけ(二三七ページ)9情報を関連づける251 「人新世」と未来倫理510151 「人新世」と「完新世」との違いは何か。5 生分解 バクテリアや菌類などの微生物の働きによって、有機化合物が無機物にまで分解されること。6 分水嶺 降った雨水を異なる水系に分ける山の尾根。ここでは、物事の分かれ目のたとえ。なお、本文では人新世の始まりを十八世紀後半の産業革命(注7)としているが、上の図(左の表)のように、二十世紀半ば以降とする見方もある。7 産業革命 十八世紀後半にイギリスから始まった、技術革新による産業・経済・社会の大改革。提唱 断絶 由来ある。 例えば、プラスチック、コンクリート、ガラスなどは、自然に生分解することがなく、地層にそのままの姿で堆積されていく。それらは砂や岩と同じように、人工物が地層を構成するようになり始めている。こうしたことは縄文時代にはまったく起こりえなかったのだ。 このような事態はいつから始まったのだろうか。人新世をめぐる議論では、一般的にその分ぶん水すい嶺れいは産業革命の時期に引かれている。この頃、人類のテクノロジーは急速に発展し、大量の人工物が生産され、また大量に廃棄されるようになった。その過程で大量のエネルギーを消費し、大量の資源を開発することが必要になった。おびただ567「人新世」は新たな地質時代となるか?第四紀新第三紀古第三紀白亜紀ジュラ紀三畳紀新生代現在地球誕生中生代古生代先カンブリア時代人新世?主な地質時代地球規模で起こっている現象完新世1万1700年前258万年前6600万年前2億5100万年前5億4100万年前46億年前更新世工業化や核実験などが本格化した20世紀半ば以降が有力地球温暖化森林破壊工業化核実験パンデミック(感染症の大流行)…生物量人工物と生物の総量の関係※イスラエルの研究機関の論文からその他(金属・プラスチックなど)アスファルトレンガ骨材コンクリート1.6兆㌧1.41.21.00.80.60.40.201900年 20 40 60 80 2000 20人工物量読売新聞2021年5月10日の記事より抜粋9情報を関連づける身近な題材から入試を意識した題材まで、充実の評論を掲載「「人新世」と未来倫理」「星の目で見る」
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