私的な記憶から始めることをお許しいただきたい。本欄担当が入学した頃のテ小ー学校マに解は説、児童の個人カードようなものがあり、入学時に必要事項を書き込んで学校に提示することになってい評た論。そ・こ体には験、と現在思索そにのつ悩みいのて中には閉、じこテめーられマたを状態よかりら目深をく転理じて、ならば個人情報とされる項目もあ解るす中でる、た自宅めかのら学解説自を己掲を俯げ瞰まするし意た識が。持てたなら、その悩みを客観視校までの経路を図示する欄があった。もちろん親が作成したのだが、その図が、当時の子どもの目に印象深く焼き付いた。自宅と小学校を含む地域が上空から見たように描かれ、目印となる建物や橋などを含んだ経路で、自宅と小学校がつなげられていたのだ。これが今でも記憶に残っているのは、俯瞰する視点を初めて知った瞬間であったからだと思われる。子どもに限らず、普段の私たちは「大地に固定」され、空はせいぜい見上げるだけである。小学校に行くのなら、自宅を出て、途中の道を順にたどり、目的地に着くという、時系列順の地に足がついた視野が連続するに過ぎない。その視野は、限定された狭いものであるだけでなく、あくまで自分が中心であり、徹底的に主観的な世界である。場所や環境と人間の関係を論じた地理学者のイーフー・トゥアンは、人間が自分中心の世界認識から、俯瞰的な空間認識を得るようになるのは、五、六歳の頃であるとしており(「参考資料②」)、それは右のような本欄担当の記憶と重なる。この俯瞰する視点は、それによって、視野や世界が広がるだけでなく、自己はその広い世界の片隅の存在であることを教えるだろう、そして、その世界と、そ指導資料指導資料(評論) の中の自己を客観視することが可能になり、自己の相対化につながる点で、人間として極めて重要な認識だと考えられる。また、その視点は、時に個々人を助けるものになるだろう。たとえば、私たちが悩みの中にいるときは、えてして自分中心の狭い世界しか見えていないものだ。できて気持ちが楽になるに違いない。本文で阿部雅世が言う「マクロの視点」や「星の目」も、広い意味では、そうした俯瞰する視野を意味し参て考資大料きな意義を持ち、また、「道具」としてのデジタルデいると思われる。この視点の転換の重要性は、自己啓発書やビジネス書などでもよくいわれており、そこでは「虫の目」に対する「鳥の目」になぞらえられることが多いようだ。ただし、飛翔の高度に限界がある「鳥の目」とは異なり、筆者が言う「星の目」は、一層スケールの大きな視野を意味しているであろうし(その点ではドローンは「鳥の目」に近いか)、科学的な技術による裏付けや、デジタルデバイスとの関連を強く意識したものであろう。こうした「星の目」は、今やデジタルデバイスによって、誰もがどこでも得られると、筆者は言い、その点で、デジタルデバイスは「夢のような道具」だとする。自身のみならず、地球や人類を客観視させることが、この「道具」の大きな特性だ。ただし、重要なのは、その視点を得た上で、私たち自身が何を考え、何をしようとするかであろう。単なる情報を集めることには、現代の人々は長けている。しかし、そこから先が大事なのであり、その点でも筆者の発想が大いに参考になる。「見えない」ウイルスのパンデミックでに地上に縛り付けられている状況の中、飛行機雲が引かれなくなった空を見上げながら、その上空を軽々と越えていく「見えないもの」を思い、地球規模の環境のつながりと、さらに宇宙的な視点での地球の姿を思って、人類としての新しい自己認識を振り返る。そして、それらがデジタルデバイスを通して得られる「星の目」だとすることで、それらの「究極の存在意義」につなげる。こうした発想があってこそ、「視点を変える」ことがバイスが活かされることになる。すなわち「星の目」教を材使っのてテ「つーらマつらやと、考え筆る者」・内容出が典最もの大理切な解のにでつあなり、がそるれは資、料全てを私掲たちげ一ま人しひとたり。の思考の力に託されている。宙飛行士の言葉本教材の出典である「見えないものを知覚する」の中で、本文の直後に掲載されている「地球の家」と題された文章は以下の通りである。建築家ル・コルビュジエの「星の目」と、自ら「星の目」となって地球を見た宇宙飛行士の言葉を紹介している。1903年、ライト兄弟の動力飛行の成功から始まった航空時代の夜明け。近代建築の巨匠ル・コルビュジエは、空を飛ぶことに情熱を注いだ冒険家たちの数々の挑戦を、目を輝かせながら追い続けた航空時代視点を変える教科書(六四〜七〇)星の目で見る参考資料テーマ解説① コルビュジエの「星の目」と地球を「発見」した宇71
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