260 我とは何か。 哲学的人間論によれば、我とは「認識する主体」です。「近代哲学の父」と呼ばれる十七世紀フランスの哲学者ルネ・デカルトは、すべてを疑い尽くして、それでも最後に残るものとして、 「我思う、ゆえに我あり」という結論にたどり着きます。哲学史に残る歴史的な名言と言ってよいでしょう。 しかし、私の考える「我」は少し異なります。 現代の脳科学によれば、我すなわち自己は、免疫機能として定義される自己は別として、最初から脳の内部に形成されているものではないことがわかっています。脳における認識主体としての自己とは、生後の人生において育まれるものなのです。つまり、生後、脳の働きを通して形成されていくもの、それが我です。 ここでいう脳の働きとは外界から投影された情報を処理すること、すなわち大脳皮質のニューロンが接続し回路を形成することです。 私は認識の本質を「外界の情報を大脳皮質の内部に投影し、内部モデルを作ること」と考えています。したがって、この過程によって形成される内部モデルこそが、私の言うところの認識であり、それが認識主体としての我というこ1①23②510評論解析C―見解を比べる*C-1・2の文章の話題は、いずれも「主体」としての「我」「私」である。比較を意識して読みなさい。(設問は二六三ページ)一九四六(昭和21)年~二〇二三(令和5)年。惑星物理学者。静岡県生まれ。本文は「我関わる、ゆえに我あり」(二〇一二年刊)によった。我関わる、ゆえに我あり松まつ井い 孝たか典ふみ解析マスター② 対比構造に着目する + 解析マスター⑤ 接続表現評 論 解 析 C-1 巻頭1 評論を読み解く 解析マスター56一九三五(昭和10)年~。医学博士。京都府生まれ。本文は「環境世界と自己の系譜」(二〇〇九年刊)によった。環境世界大おお井い 玄げん解析マスター② 対比構造に着目する 巻頭1 評論を読み解く 解析マスター評 論 解 析 A-2 生物は同じ環境に生きていても、その環境に見いだす意味は、それぞれ違う。環境に見いだした意味によって構成された世界が、それぞれの「環境世界」だ。近代になって環境と環境世界の区別をより平明に例示した功績者はヤーコブ・フォン・ユクスキュルだろう。 例えば、ゾウリムシは、淡水中でその体表に密に生えた繊毛を動かして浮遊している。何かに突き当たるとき、それが食べられない物体ならそれから離れてゆくが、死んだ腐敗バクテリアのように食べられるものならそれを食べる。そこにある水みず苔ごけの生えた小石、揺らぐ水草や泳ぐ魚などはゾウリムシにとって存在しない。つまりゾウリムシにとって水環境は、食べられるものと食べられないものによって構成された環境世界だ。 同一の環境では種々の生物が共存する。近所の遊歩道に沿って流れる人工のせせらぎにアメリカザリガニがたくさん棲すんでいる。ある日、子どもたちが来てスルメを餌に釣り上げていたが、遊び終わるとザリガニをまた元に戻して帰っていった。夫婦らしい高齢男女がザリガニを見ており、男は女に子どもの頃手捕りした経験を語っていた。しかし翌朝コサギがやって来てザリガニを飲み込んでいた。同じザリガニのいるせせらぎでも遊びの場、回想の対象、そして食物を漁あさる場、生物がそこに見つける意味はそれぞれに違う。 ただし、ヒトは世界をコトバで分節する点で他種生物と異なる。丸まる山やま圭けい三ざぶ郎ろうの指摘のように、生物は連続した環境1234510評論解析A―構成を捉える26251015 「私」が安心して「主体」として振る舞えるようになるには、「私」から見て、立派な自立した「主体」であるような他者たちから、対等な立場で「承認」される必要がある。では、「私」を承認してくれる他者は、どのようにして「主体」たりえているのか? その他者もまた、「私」と同じような「自/他」意識を持っているとすれば、彼もまた、「主体」となるのに、(「私」自身を含む)他の〝他者〟たちからの承認を必要とするはずである。つまり、「私」を承認する「他者」を承認する「私」を承認する「他者」を承認する「私」を承認……というように、相互に(無限に)承認し合う関係が成立していることによって、「私たち」は安定的に「主体」たりうるのである。 相互承認し合う「主体」たちは、お互いの人格を尊重し合うためのルールを慣習的に形成するようになる。そうした相互承認に基づく「関係性+慣習+ルール」のことを、ヘーゲルは「人倫」と呼ぶ。家族、市民社会、国家といった各段階での「人倫」が歴史的に「形成」されていること、そして「私」自身が、その人倫的な形成物の中にしっかりと組み込まれ、その具体的な形態に適合する形で人格やアイデンティティーを形成していることが、「私」が「主体」であるための条件になっているわけである。 「承認」と「人倫」によって、「私」たちが「主体」であることが可能になっているとしたら、「承認」と「人倫」が崩壊したとき、私たちは、他者から認められているという自信を失い、十分に「主体性」を発揮できなくなる。例えば、会社に勤め、その会社での仕事のしかたを身につけていることによって、同僚や上司から「認め」られている人は、そうした関係性を基盤として、みんなの期待に応えるようないい仕事をしやすくなる。職場における関係性12一九六三(昭和38)年~。哲学者。広島県生まれ。本文は「いまを生きるための思想キーワード」(二〇一一年刊)によった。「私」が「主体」であるために仲なか正まさ 昌まさ樹き解析マスター① 主要な見解をつかむ + 解析マスター⑧ キーフレーズ評 論 解 析 C-2 巻頭1 評論を読み解く 解析マスター評論解析C―見解を比べる「環境世界」「ほどほどのデザイン」「我関わる、ゆえに我あり」「「私」が「主体」であるために」単元2「筋道をつかむ」の学習内容(①対比構造/②具体例の働き/③見解の根拠)と関連させて学ぶことができます。評論解析Cでは同じテーマを論じた2本の評論をご用意。それぞれの文章の読解はもちろん、2本を比較して読み深める学習も行うことができます。教科書09評論解析
元のページ ../index.html#11